小さな幸せ

小さな幸せって本当に大事だと思う。
それに気付けるかどうかで、人間力が変わる。
何より良い気持ちで生きることができる。
絶え間なく、スマホを見続けて一日が終わるより
今に意識を向けて、暮らすだけで
いろんな発見があると思う。
スマホを見ながら散歩をしている人とかを見ると
もったいないなぁと思う。
すぐ横に綺麗な花が咲いていたりと
いろんな幸せがあるのに。

人間の本質

 人間の本質は”愛”だと思う。
広義に”愛情”と言える。
そしてそれは”量”ではなく”質”なんです。
これは恋人に対してだけに限定した話ではなくて、
家族や気を許せる友人にまで、
愛情は当てはまる。
それが人の支えとなる1番のもの。

今を生きる

今を生きることがどれほど難しいか。
意識しないと分からない。
すぐそこに、ここにあるはずだけど
多くの人がそれを感じることができていない。
気づいたら今が過ぎている。
”今、ここを生きる”感覚。
質素で単純だけど、今の時代それがとても難しく、
そしてとても人間的で、幸せなこと。

日常と非日常

日常と非日常。
この2つは表と裏の関係で、
人それぞれ異なるそれらを持っている。
そして誰しもがこの2つを持っている。

多くの人は非日常を楽しいと感じる。
それはある種の
「となりの芝生は青く見える」ということ。
自分達の”日常”も他の人にとっての
明らかな”非日常”なのだ。
  
非日常は、”体験する”ことはできても、
”手に入れる”ことはできない。
手に入れた時点で、”非日常”は”日常”に変わっている。

狭くなる大空

人間は建物に埋もれている。
街が大きな迷路のような。
高架を進む電車から街を眺めて思った。
実は空はいつでもすぐ上に広大に広がっているのに。

自分は今街中の道路に立っている。
街中で周りを見上げても ずらっと並ぶ建物たちと目が合うばかり。
僕たちはどんどん建物を建てて、 大空を見えなくしている。
なんかもったいないなあと思ったり。  

土地の素顔

その土地での暮らしは、案外隠れている。
外から来たものからしたら、こちらから求め、探す努力をしないと
垣間見ることはできない。
求め探していると、ふと
急にそこでの暮らしは現れる。
そしてその目の前にある暮らしの瞬間から、
その人々の暮らしの全体像を頭の中で、
想像して、想像して、想像する。
その勝手な想像を、勝手にその土地の記憶と紐づけていく。  

先の見えない道を歩み続ける

人生は選択の連続。
先の見えない人生という道を
死というゴールに向けて歩いている。

少しでもいい道を歩もうと、
その選択肢した未来を解像度高くイメージしたりする。
それでもピンとせず、悩みながら歩み続ける。
時に早く、時に慎重に。
急に崖に落ちることもある。

最後にどう落ちるのか、
はたまた宙を舞うのか、
身近な人の死がその終わりざまを考えさせる。 

自分を撮っている


写真は自分を写し出す。
感情を、記憶自体を。

自分が変われば写真も変わる。
過去に撮った写真と対峙して、
昔の自分を確かめる。
当時の等身大の自分を見て懐かしみ、
そして変化に気づく。
はたまた写真から未知の(忘れてしまっている)
自分に出会う時もある。

写真は今の自分を表現して、
"今"をどんな時間が経とうとしているのか
ありのままに表現している。

ここの今とあそこの今


時の流れはどこにいても変わらない。
誰かがオフィスで忙しなくしている時に、
どこかの小さい島に佇む自動販売機は緩やかで
悠々とした時間を過ごしている。
どこにいても同じく時間は流れているけれど
どうしてこうも違うのだろう。

今日もまた、時は流れる


2024年6月14日18時33分。
祖父が息を引き取った。

当たり前のことだけれど、"老いには逆らえない"のだと最近よく感じる。
ネットニュースで久しぶりに見た著名人の姿が知らぬ間に老けていたり、
自分自身も些細ではあるが学生時代と比べて無理が効かなくなった。

自分たちの身体も"消耗品”なのだ。
人間は必然的に死ぬ。
ごくごく当たり前のことなのに、当然のようにその瞬間は悲しい。

人生の結果は決まって死なのである。
人生の大半はその結果までの過程が占めている。

26歳の今、目の前の事を一生懸命になりながらも、
どのように人生を歩み進めたいかを考える。
そして自分自身がどういう”死に方”をしたいか考える。


『君に読む物語』
そんな人生の閉幕を子供のように憧れ続ける。
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